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2025年6月13日金曜日

我が家のファミリーヒストリー




 10年来会って無かった従兄弟より先月電話があり、家系図を見直しと最新版に書き替えてるとの事、

昨日又電話あって明日居ますかとの事。選挙も近いし推薦者の支援の話かな?と疑ってましたが家系図の最新版の聞き込みでした。 母方の家系図です、父方は後継者が娘ばかりで古文書で養子に出た私が預かってます。古文書なので読めずにそのままにしてます。 母方は下記の様です。





雨森家元祖墓所

雨森氏の由来

伝記によれば、越州(福井市)木田の長者に留美酸の一人の娘

があり、京都に上り歳人少将藤原高良(鎌足の後裔、高藤より七代子孫)に仕え、男の子一人をもうけた(応徳二年一〇八五)。名を三王丸という。ところが三才になってもひと言も言葉を話せない。

そのため高良の子ではないとの噂が立ち、やむなく三王丸を連れ母と子は故郷の木田へ帰ることとなった。

日を重ねてようやく湖北の富永の庄にたどり着いた時、小雪まし

りのしぐれが激しくなり、傍らの森陰に雨宿りしつつ田君が

東風しぐれ木陰たよりの脇桃

枝吹き分けて雨のもれける

と詠まれると、三王丸は悠然として初めて「アメモル」と言葉を口にした。母君とお付きの人々は雨雪の吹きすさぶのを忘れて喜び合った。そして村人の好意を頼りにこの地に留まる決心をして三王丸

の名を雨森三左衛門良治と改めた。飛講雨森姓の始祖である。

良治は、二十四才の時には、内影衛誌の命を仰せつけられている。

年は久寿三年(一ー五六)。享年七十二歳・

正面に向って右端が、雨森家元祖三左衛門良治の供養塔である。

雨森氏は、赤尾、磯野、井口の三氏と共に湖北の四家として天下に名を知られ、戦国時代には小谷城主浅井氏三代に仕えて赤尾氏、

海北氏と共に浅井家海雨赤の三傑とも称せられた。しかし小谷城の落城にともない当時七十二騎あった雨森一族の武将のほとんどが討死したという。それら武士の墓もこの中にあるのかもしれない。

雨森家菩提寺について

雨森家の菩提寺は、部

中本山である漁寿院(余呉町部

t)である。

森一門会 代表者雨森正高


不思議な縁、実は工業高校3年夏休みに徒歩で琵琶湖周回キャンプを友人と三人で3〜4泊しながらテント泊した思い出があるのですがこの雨森墓所付近も知らずに通っているのです。知っていればお参りしていたのになー。


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